偉大かつ神秘的──
こんなベートーヴェンが聴きたかった!
ベートーヴェンの偉大な作品群のなかでも"ピアノソナタ"は独自な位置を占めていると思われる。
それはおそらく、ベートーヴェンにもあったであろう日々の喧噪からの避難所であり、
日常の精神生活の内奥の吐露であり、拠り所のようなものであったのではないか、
そんなピアノソナタを語るうえで、あまりにも特別な地位を得ているのが、この"三大ソナタ"である。
この聴き慣れた、しかも名演の多いプログラムを、若手の演奏家が挑むのには、
いったいどれだけのプレッシャーがかかるるのだろうか…。
今年、その大役を担うことになったのは、入江一雄氏である。
入江一雄氏は、昨年、美竹サロンでベートーヴェンの巨作ハンマークラヴィーアを披露した。
その演奏では、ベートーヴェンが到達しえたピアノ演奏の魅力を、ベートーヴェンそのものを、見事に、神々しいまでに顕現させた。
膨大で深浅さまざまな情報を有する難曲だが、硬質で強靭な打鍵、柔軟で自在なタッチ、高度な洞察力、すみずみにまで行き渡った解釈の的確さ等々は、聴き手を圧倒し、導き、この巨大な作品の全貌を露わにすることに成功していた。
長大なフーガの先に現れたベートーヴェンのイルミネーションは、わたしたち聴き手に、その深い精神性を初めて示現することになり、わたしたちは深い感動に案内されたのである。
その演奏に触れてからしばらくの間、入江一雄のピアノが持つパワーの秘密を考えずにはいられなかった。
入江一雄のインディビュディアリティ(独立性・個性)とはどんなものなのだろう。
入江一雄がベートーヴェンを追究すれば追究するほど、そこに入江一雄は消え、ベートーヴェンになってしまう。
入江一雄がブラームスを追究すれば追究するほど、入江一雄は消え去り、ブラームスになってしまうのだ。
圧巻だったのは入江一雄のプロコフィエフだが、入江一雄がプロコフィエフを追究すれば追究するほど、プロコフィエフの面白さ、個性が際立ってしまうのである。
入江一雄のバッハも同様である。
このような入江一雄のピアニストとしての特性は、それ自体が彼の非凡の特性とも言える。入江一雄という演奏家は、聴衆を意識するのではなく、作曲家に、誠心誠意、アグリーメントと敬意を捧げながら演奏するピアニストなのである。
飾り立てることもなく、衒気のかけらもないが、作品の核を的確に見据え、そこに潜む本来の美しさを引き出すことができる稀有なピアニストである。
ソリストとしてはもちろんのこと、室内楽奏者としても引っ張りだこの彼だが、その“オールマイティーさ”の秘密は、彼のそうした献身の姿勢にあるのではないだろうか。
美竹サロン恒例のベートーヴェン三大ピアノソナタであるが、偉大かつ神秘的なベートーヴェンのイルミネーションを、入江一雄氏はどのように輝かせてくれるのだろうか。
(美竹清花さろん)
プロフィール
入江 一雄(IRIE Kazuo)Piano
東京藝術大学・同大学院を首席で卒業・修了後、チャイコフスキー記念ロシア国立モスクワ音楽院研究科に留学。2016年夏にディプロマを取得し同科を修了。在学中にロームミュージックファンデーション(2012,13年度)・文化庁(2015年度)より助成を受ける。
第77回日本音楽コンクールピアノ部門第1位、第1回CWPM(ポルトガル)第5位入賞他受賞多数。ライフワークとしているプロコフィエフのピアノソナタ全曲演奏会を成功させる等のソロ活動に加え、新日本フィル・東京フィル・日本フィルなどの国内主要オーケストラとの共演や、若手演奏家からベテラン奏者まで幅広い音楽家との共演機会も多い。近年ではN響第1コンサートマスター篠崎史紀氏から絶大な支持を受け、同氏リサイタルや室内楽公演で多くの共演機会に恵まれる。
これまでに植田克己、エリソ・ヴィルサラーゼら著名な音楽家に師事。現在、桐朋学園大学・昭和音楽大学ピアノ科非常勤講師。王子ホールレジデンス「ステラ・トリオ」メンバー。