驚き、歓び、哀しみ、怒り、迷い、そして苦悩。
人生のすべてを映し出す、吉田友昭の“祈り”のような《ゴルトベルク変奏曲》
年末にこそふさわしい、音楽による真の「慰め」を──
人は、音楽によって、どんな救いを見出してきたのだろう
バッハのBWV988、すなわち《ゴルトベルク変奏曲》は、“心の慰め”と表現されるにふさわしい“救い”の力を感じさせる作品である。
バッハにとっては、単なる“心の慰め”ではなかった。18世紀ドイツでは、特に宗教音楽や象徴的言語、数秘的伝統において、“3”は神を象徴する数であった。
《ゴルトベルク変奏曲》は、アリア+30の変奏+アリアの再現=32曲構成だが、変奏(30曲)のうち3、6、9、12…と、3の倍数番号の変奏がすべてカノンとなっている。30の変奏のうち10曲がカノンであり、厳密な対位法的書法=規律や普遍性=神を志向する。また、カノン以外の“3の倍数”という発想自体が三位一体的世界観を象徴している。調性や楽曲内の構造にもこの“3”が反復的、多層的に現れ、バッハの意図が感じられる。
バッハの“3”に対するこだわりは、合理的・数学的遊びなどではなく、「神の完璧性・三位一体性・永遠普遍性」を示すバッハの祈りでもあった。単なる“心の慰め”ではなく、バッハ自身にとっても極めて特別な作品だったはずである。
その証拠に、バッハ全作品中、このようなバッハ自身による“Trinitatis”(神の三位一体性)を音楽的数構造で表現した特異な作品は、《ゴルトベルク変奏曲》と《ドイツ・オルガン・ミサ》のみであった。
眠れない夜に、安らかな眠りをもたらすための不眠症のための曲、“心の慰め”の曲という紹介のされ方が多いが、この作品は、決して穏やかであるばかりではない。
美しい、天国的な、静かな“アリア”から始まるが、30の変奏が、まるで一人の人間の人生をなぞるかのように展開していく。驚きがあり、歓びがあり、哀しみがあり、怒りや迷いがあり、苦悩もある、それでもなお、生き、歩んでいく力に満ちている。
そして、最終的に、生涯のすべてを見渡し、「悔いるものなし」とでも言うかのように、再び冒頭のアリアが静かに繰り返され、天へと消えていく。
・・・・どんな出来事も起こるべくして起こり、すべてが必要だった、“この人生で経験したすべて”に意味があった・・・こうした諦観、悟りこそがゴルドベルク変奏曲の“慰め”の本質なのではないのか。
弊サロンの年末ゴルトベルク変奏曲コンサートは、すでに8年目を迎える。
この作品を演奏会で弾いたことはない、弾く予定もないという演奏家も多い中で、出会い、意思をもって取り組み、聴き手と分かち合おうとする演奏家様が8年も続き、バトンタッチされていることに驚きを感じたりもする。それぞれの演奏家様にとっても、特別な出会いの意味があったのだろう。
今年は、吉田友昭氏の登場となる。氏から以下のようなメールを受け取ったとき、「今年はこの方が登場する以外にない」と確信した。
「親戚不幸続きで怒涛に過ぎ去ってるなか、ゴルトベルクテーマを奏で、心が震えております。則天去私。」
人生には、避けようのない試練の時期がある。そんななかでゴルトベルクと向き合うという決意は、もはや単なる“演奏”という枠を超えた、運命的な行為ではないのか。
吉田友昭というピアニストは、一つひとつの作品に対して、世の常識を超えた魂を注ぎ込むような姿勢で向き合う演奏家だ。
「生き様」を人びとの目の前に、また神仏の前に差し出すような演奏といっても決して過言とはいえない。それは、ピアノを“弾く”という行為ではなく、“祈り”といってよい。
さらに、《ゴルトベルク変奏曲》の前にショパンの《葬送ソナタ》が置かれている点にも注目したい。
死を直視し、葬列の歩みを描いたこの傑作を経てこそ、《ゴルトベルク変奏曲》に宿る“慰め”の光は、いっそう切実に、深く聴く者の心へと届くだろう。
激動の2025年の締めくくりに、吉田友昭が紐解く──《葬送ソナタ》を経ての“ゴルトベルク変奏曲”に耳を澄ませていただきたい。
最後に、吉田氏から届いているメッセージを紹介したい。
(渋谷美竹サロン)
・・・・
歩を運ぶたびに、したたり落ちる憂うつ。世の中が、そう見えます。
Goldberg、ゴルトベルク、ト長調、G major…etc。オマージュ・Gと銘打ちます。
バッハの記した「心の慰め」が生きる力を与えます。深く、静かに。
(吉田 友昭)