演奏に寄せて──
ご好評頂いている「名曲特集」は今年で3回目となる。
シューマンの大作「謝肉祭」がメインとなるように組み上げると共に、前半は感情の推移に注目して選曲した。
普段あまり耳にしないような作品もあると思うが、非常に魅力的な作品たちであると断言しよう。名曲とは有名な曲の他に「優れた曲」という意味もある。
今回はそんな後者寄りの意図を持ったプログラムをご堪能いただきたい。(佐藤彦大)
探究心と精緻なピアニズム──佐藤彦大の世界
佐藤彦大のピアノは、一度聴けば誰しもがその精巧さに驚かされる。
響きの純度、フレージングの緻密さ、楽曲の本質を掘り下げる探究心 ―― 彼の演奏には、常に音楽への深い洞察と斬新なアイディアが感じられる。
しかし、それは単なる技巧の妙に留まらず、独自の歌心によって聴き手の心を揺さぶる表現へと昇華されている。
彼の演奏を形容するならば、「繊細なオルゴール」のような音楽といえるだろう。
音と音との隙間にまで神経が行き届き、響きが研ぎ澄まされ、楽曲の構造が透徹して見えてくる。
そこに宿るのは、長年の研究と実践の積み重ねによって培われた職人の技である。
また、佐藤は東京音楽大学で、多くの学生の指導者として後進の指導にあたり、
その教育においても「見えないものを洞察し、新たな視点を提案する」彼ならではの工夫に満ちた指導を行っている。
その証拠に、彼の門下生がコンクールなどで活躍する姿を目にすることが少なくない。
これほどまでに「探究心」を持ち合わせた演奏家は、稀有な存在といえる。
そんな佐藤彦大だからこそ、耳の肥えた聴衆が集う美竹サロンで、「名曲特集」という企画を実現してくださっている。
今回も、誰も思いつかないような独創的な企画が提案されてきた。
佐藤彦大の名曲特集は、今回で3回目だ。
毎年、キャンセル待ちも続出となり、超満員の人気企画となっているのは、
まさに、佐藤のピアニズムが多くの人々を惹きつけているからだろう。
プログラムに込められた意図
今回のプログラムは、一見すると、親しみやすい名曲集のように思えるが、その構成には明確な意図がある。
作品の流れの中に、「夢・郷愁・愛・舞踏・幻想」といったテーマが織り込まれており、それらが時代や作曲家の個性を超えて響き合う構成になっている。
〈前半〉 精密さと詩情、舞踏の躍動感
冒頭のリャードフ《オルゴール》Op.32は、わずか2分ほどの小品ながら、精密なタッチと響きの美しさが求められる作品である。
前回の公演ではモーツァルトの《アヴェ・ヴェルム・コルプス》で、息を飲むような透明感を味わわせてくれたが、今回はさらに繊細な表現が求められる。
続くシューベルトの《12のレントラー D.790》は、素朴で愛らしい舞踏のリズムが特徴。
そこからプーランク《即興曲第12番〈シューベルトを讃えて〉》へと続くことで、シューベルトへのオマージュと、プーランクの洒脱な音楽語法の対比が浮かび上がる。
シューベルトを敬愛する佐藤ならではのこだわりが垣間見える選曲となっていることに目を見はる。
ラフマニノフの《ヴォカリーズ》は、リチャードソンによるピアノ編曲版。
言葉を持たない旋律美が、ピアノ独奏によってどのように再構築されるのかに注目したい。
ショパン《バラード第3番》は、詩的な旋律と劇的な展開を併せ持つ、洗練された名作。
この作品には「歌心」が求められるが、それこそ佐藤彦大の真骨頂といえる部分だ。
《愛の夢 第3番》は、リストの代名詞ともいえる作品。
フライリヒラートの詩「おお、愛しうる限り愛せ」に基づく甘美な旋律と華麗な技巧が交錯する。
もともと歌曲として作曲されたが、リスト自身によってピアノ独奏版へと昇華された。
そして、ブラームス晩年の円熟した温かみと、穏やかな愛情に満ちた《6つの小品 Op.118 より第5番〈ロマンス〉》、
そしてドヴォルザークの《スラヴ舞曲 第3番 変イ長調 Op.46-3》へと続く。
ドヴォルザークがブラームスの《ハンガリー舞曲》に触発され、民族音楽の要素を取り入れて作曲したスラヴ舞曲集。
この2つの作品を並べた流れには、こだわりが感じられる。
〈後半〉詩情に満ちたシューマンの「カーニバル」
後半は、シューマン《謝肉祭》Op.9「4つの音符による面白い情景」。
近年、この作品のフランス語副題 “Scènes mignonnes sur quatre notes”(4つの音符による可愛らしい情景)が表記されるようになったのは、
シューマンの創作意図を尊重する研究の進展によるものだ。
実らなかった恋の相手、エルネスティーネ・フォン・フリッケンの故郷「アッシュ(ASCH)」のスペルを音名に置き換え、
その音列を主題として用いるという巧みな発想から生まれた。
さらに、シューマン自身や彼の周囲の音楽家、作家、架空のキャラクターが登場するという独創的な構成を持つ。
そして佐藤彦大のピアニズムの真価が発揮されるのは、まさにこうした作品だ。
彼の演奏の魅力のひとつは、精巧さに加え、まるでオペラを観ているかのように、多彩なキャラクターを演じ分けることにある。
まるで「百面相」のように音楽の表情を変え、登場人物たちに生命を吹き込んでいく。
その自在な表現力には、驚嘆せずにはいられない。
名曲の輝きをどう響かせるのか
これほど多くの名曲を、その作品ごとの個性を際立たせながら瞬時に演奏するには、並外れた技量が必要だろう。
彼がこれらをどのようなアプローチで演奏するのか、彼の探究心がどのように結実するのか…。
それを目の当たりにしたとき、私たちは音楽的にも感情的にも、真の豊かさを体験することになるだろう。(渋谷美竹サロン)