沈黙のなかのうた—— ヴィオラとピアノが紡ぐ、祈りと記憶の音楽
〜ショスタコーヴィチ没後50年に寄せて〜
2025年、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ没後50年。
最晩年に遺された《ヴィオラとピアノのためのソナタ》Op.147を軸に、ひとつの静かな対話が始まる。
そこに寄り添うように置かれたのは、ガブリエル・フォーレの晩年の歌曲たち。
《夢のあとに》《9月の森で》《楽園》《閉じられた庭》—— いずれも、言葉では語り尽くせない感情が宿る詩的な作品である。
言葉の奥にひそむ“声なき声”が、まるで空気の中を漂う光のように、音楽として立ち上がる。
歌詞を持たぬヴィオラでそれらを奏でるという挑戦に、田原綾子は迷いなく身を委ねる。
中低音域に宿るヴィオラ特有の温もりが、言葉では語り尽くせない感情の襞を、詩のように、あるいは祈りのように紡いでいく。
田原のヴィオラには、楽器への深い信頼と音楽への愛がにじむ。
「ヴィオラが好きでたまらない」と語るその姿勢は、演奏の一つひとつ、そしてあの笑顔にも自然に表れている。
技巧のための音ではない。
何かを説明するための音でもない。
そこにあるのは、ただ“歌う”ということへの純粋なよろこびだ。
彼女の音が鳴ると、空間がふっと柔らかくなる。
それはきっと、楽器を心から愛し抜く者だけが奏でられる、特別な「うた」なのだ。
後半に置かれたショスタコーヴィチの《ヴィオラとピアノのためのソナタ》Op.147は、まさに作曲者の絶筆。
亡くなる数週間前に完成されたこの作品には、死の予感とともに、なお音楽への執着が静かに刻まれている。
第3楽章では、ベートーヴェンの《月光ソナタ》がひそやかに引用される。
それは過去への回帰なのか、それとも永遠への入口なのか—— 音楽だけが、静かにその答えを知っている。
實川風のピアノは、そうした音楽の深層にごく自然に寄り添う。
自己主張ではなく、音楽への献身。
鋭い知性と繊細な感性、美への誠実な姿勢を併せ持ちながら、流れる清流のように音と音のあいだをつなぎ、時には“沈黙そのもの”をも音楽へと変える。
フォーレの淡い和声がふと沈み込む瞬間、ショスタコーヴィチの旋律が断絶と再生を語るとき、そのすべてを實川のタッチが確かに受け止めてゆく。
そしてあらためて気づかされる。ヴィオラとピアノ—— この二つの楽器の対話が、どれほど繊細に、どれほど深く人の心の奥にまで降りていけるのかということを。
目を奪うような華やかさも、大きく揺さぶるような激情も、ここにはない。
がしかし、だからこそ響くものがある。
音楽が音楽であること、その根源にある、静かで凛とした美しさ。
その核心に触れるひとときとなるだろう。(渋谷美竹サロン)