バッハから開かれていく、祈りと幻想の風景。
そして、魂の対話へ──
ピアニスト、石井楓子の音楽には、
作品の構造を明晰に捉える知性と、
その奥に潜む感情の揺らぎをすくい上げる感性とが、
無理なく同居している。
スケールの大きな響きを生み出しながらも、
作品が本来もつ呼吸に丁寧に耳を澄ませ、
その内側にあるものを鮮やかに立ち上げていく。
美竹サロンへの再登場となる今回は、その持ち味が、
前半の独奏と後半の二重奏という二つのかたちで示される。
今、彼女が取り組みたい作品を集めた、
まさに渾身のプログラムである。
幕開けは、J.S.バッハの《組曲 ヘ短調》である。
今日ではピアノでも奏でられるが、
チェンバロを思わせる引き締まった輪郭と、
繊細な陰影をもつ作品である。わずかな音の動きにも表情が宿り、
簡潔な舞曲のなかから、
バロックの空気が静かに立ち上がってくる。
続く八村義夫の《彼岸花の幻想》では、
その端正な線はたちまち揺らぎ、
音は色彩と気配へと変わっていく。
八村は、幼少期に目にした彼岸花の鮮烈な記憶をもとに、「
透明で不吉な予感」を意図してこの作品を書いたという。
鮮やかな花の色、不協和音のざわめき、現れては消える光。
記憶の底に残された像が、
現実とも夢ともつかぬ音の風景となって立ち現れる。
バッハの明晰な輪郭から、
現実と幻想の境がほどけるような世界へと、
ピアノはその表情を大きく変える。
そして前半を締めくくるフランクの《前奏曲、コラールとフーガ》
では、響きはさらに厚みと奥行きを増していく。
石井のピアノによって、この作品のもつスケールと深い陰影は、
いっそう鮮やかに立ち上がることだろう。
長くオルガニストとして教会の空間に親しんだフランクの音楽には
、
ピアノ一台から発せられるとは思えないほどの重層的な広がりがあ
る。
低音から高音へと積み重なる響き、
遠くから呼び交わすような声部、
そして堂々と立ち現れるコラール。
それは、チェンバロを思わせるバッハの細やかな線とは対照的な、
オルガンのように壮大な音の大伽藍である。
バッハの簡潔な舞曲から、八村の鮮烈な幻想を経て、
フランクの壮大な祈りへ──
同じピアノという楽器が、
細い一本の線から幾層もの響きへと姿を変えていくところにも、
前半の大きな聴きどころがある。
後半には、
NHK交響楽団で第2ヴァイオリン次席を務める横島礼理が登場す
る。
石井と横島は、桐朋学園時代の同級生である。
同じ学び舎で時を過ごし、
その後それぞれの道で音楽を深めてきた二人が、
いま再び向き合う。
そこには、単なる親しさにとどまらない、
互いの音楽の変化を知る者同士ならではの信頼と、
静かな緊張が生まれるはずである。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第10番は、
彼が遺した最後のヴァイオリン・ソナタである。
ここには、中期の作品に見られるような劇的な対立や、
外へ向かって放たれる英雄的な力は、もはや前面には現れない。
むしろ二つの楽器は、互いの声を遮ることなく、
慎重に耳を傾けながら音楽を進めていく。
華やかさよりも親密さ、主張よりも対話が、
この作品の美しさを形づくっている。
それに対して、シューマンのヴァイオリン・ソナタ第1番は、
内に秘められていた情熱が、
冒頭から堰を切ったようにあふれ出す音楽である。
ヴァイオリンとピアノは、穏やかに言葉を交わすというより、
互いを突き動かし、ときに追い立てるようにして進んでいく。
ベートーヴェンの静かな対話を経たあとだからこそ、
その切迫したロマンは、いっそう鮮明に響くことだろう。
一人のピアニストが辿る祈りと幻想から、
二人の演奏家による親密で激しい対話へ──
このプログラムは、
性格や時代の異なる作品を単に多彩に並べたものではない。
バッハに始まり、八村、フランク、ベートーヴェン、
シューマンへと進むにつれて、響きは少しずつ姿を変えながら、
より深い場所へと向かっていく。
聴き手もまた、その流れに身を委ねるうちに、
いつしか音楽の内側へと引き込まれていくのではないだろうか。
演奏家の思索や感情は、舞台に立った瞬間、
音となって一気に解き放たれる。
それは、いわば芸術の爆発である。
けれども、その瞬間は演奏家だけのものではない。
目の前で耳を澄ませ、その響きを受け止める聴き手がいることで、
音楽はその場限りの、生きたものとなる。
音楽家が思いきり表現し、
聴き手がそれを間近で受け取ることのできる場所。
美竹サロンが目指してきた「開かれた場」とは、
きっとそのようなものなのだと思う。
今回の公演では、
その醍醐味を存分に味わっていただけるはずである。
(渋谷美竹サロン)