独奏の極み、対話の深み
二人の美意識が響きあう ── 黒川侑 × 秋元孝介
黒川侑のヴァイオリンには、まるで繊細な糸で緻密に刺繍を施すような、丁寧な音の積み重ねが基盤として感じられる。
だが、その刺繍は単なる細工にとどまらず、やがて一枚の絢爛たる着物のように仕上がり、そこには繊細さとダイナミズムとが、互いを損なうことなく見事に調和している。
音が外へ放たれるのではなく、内に充満しながら、静かに、しかし確固たる音楽となって滲み出てくるような様式だ。
だからこそ、バッハの無伴奏、なかでも《シャコンヌ》のような作品において、彼の演奏がいかに際立って傑出したものとなるのか──
そうしたバッハを、ずっと待ち望んでいたのである。
秋元孝介のピアノには、明晰な技巧と、マイスターのような技が調和し、精緻な手さばきがある。
虚飾を一切排し、自己陶酔を感じさせることもなく、細部にいたるまで計算され、構築されているにもかかわらず、その音楽は不思議なほど自然な流れを保ち、一本の太い線となって、最後までぶれることがない。
それはまるで、巨大な氷山にアイスピックを打ち込みながら、その中から緻密な彫刻を削り出していくような──
しかも、その削り落とされた氷片でさえ、結晶が美しく輝いている。
そんな情景が思い浮かぶような、独特な魅力あるピアノ演奏だ。
そんな彼が、ピアニスト人生を通じて弾き続けたいと語る作曲家が、メトネルである。
今回、そのメトネルの作品がプログラムに選ばれている、彼の美学とこだわりが刻まれている。
そんな二人の、妥協の余地がない、熟慮が重ねられたプログラムが、以下である。
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L.v.ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第2番 イ長調 Op.12-2
N.メトネル:ノクターン 第3番 ハ短調 Op.16-3
J.S.バッハ:シャコンヌ ~ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番より*
D.ショスタコーヴィチ:前奏曲とフーガ 第24番 ニ短調 Op.87-24**
J.ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調 Op.108
(*黒川 **秋元)
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クラシック音楽というのは、ある意味で、“対話”の芸術でもある。
作曲家の自己との対話、その独白の結晶となっている作品と演奏家の対話、演奏者の自己との対話、
そして、演奏者と聴き手である私たちとの対話である。
それが、外形的には、目の前のピアノとヴァイオリンの対話となって現れるのである。
この夜に並ぶ作品たちは、そうした“対話”を、さまざまな視点から示現してくれるだろう。
ベートーヴェンのソナタ第2番には、若き日の気鋭と、どこか洒脱な遊び心が満ちている。
ブラームス晩年の第3番には、老成と情熱が、まるで沈殿物のように濃密に息づいている。
同じ「ソナタ」と名のつく作品でも、書かれた時代も背景も異なる ── それでもそこに通底しているのは、二つの楽器が語り合う歓びである。
イ長調とニ短調の“対話”を囲むようにして、静かに置かれた二つのニ短調のソロ作品。
バッハの《シャコンヌ》と、ショスタコーヴィチの《前奏曲とフーガ》。
ひとりで奏でるということが、どれほど深く孤独で、同時にどれほど自由で豊かなのか。
黒川が、秋元が、それぞれの音で、その問いを明らかにしていく。
バッハの《シャコンヌ》は、言わずと知れたヴァイオリン独奏の極北、これほど峻厳で、これほど至高の作品はない。
たった一人の奏者の手から、全宇宙が立ち上がる様が示されるバッハの到達した奇蹟である。
ショスタコーヴィチの《前奏曲とフーガ》── これもまた、孤独な精神の闘いが五線譜に封じ込められた作品である。
秋元の手によって、どんな光と影がそこに浮かび上がるのか ── どんな一期一会となるのだろう…
そして、メトネルのノクターン。
知る人ぞ知る作曲家かもしれないが、聴いてみればきっと納得できるだろう。
ロシアン・ロマンティズムの香りと、ドイツ的な理性の構築、その狭間に立つような響きが続く。
一見、ひっそりとした佇まいのなかにも、崩れ落ちそうなほどの繊細な感情と、形態を保とうとする意志が拮抗する。
音楽という “瞬間の存在” でしかない儚さ、しかし、真実の存在感をも主張する確固たる意志がそこには示されている。
こうしたプログラムの妙味は、それぞれの作品の独自な“濃さ”にあるだけではなく、相互に反射し合い、ブレンドされながら、物語を紡いでいくところにある。
独奏と重奏、モノローグとダイアローグ、若さと老い、古典と現代、それらが、二人の音楽家──黒川侑と秋元孝介──によって、一本の太い線で描かれるのである。
一夜の一演奏会で、これほど多彩な音楽に出会えることもそう多くはないだろう。
確かにこの一夜の演奏会は、私たち一聴き手にとっても、些細な一冒険になるに違いない。(渋谷美竹サロン)