鐵百合奈さんに聞きたい音楽のQ&A
鐵百合奈さんといえば曲の本質的な魅力を引き出し、毎回私たち聴衆を共感の渦に誘います。
今回はそんな演奏の秘密が垣間見えるお話も…!
美竹清花さろんでは3度目の登場となる鐵百合奈さん。(以下、敬称略)
昨年のコンクールでの活躍が印象的でしたが、ご自身の音楽観、音楽人生についてさまざまな質問をさせていただき、お答えいただきました。
素朴にただただ純粋に音楽について語る姿は、純朴な彼女の内面的な魅力が溢れる、温かなインタビュー風景となりました。
“表層の出来事”ではなく、”曲の本質”を
ー 昨年、第86回日本音楽コンクールでは第2位 岩谷賞(聴衆賞)、三宅賞、そして柴田南雄音楽評論賞(本賞)というトリプル快挙、おめでとうございます!
コンクールでは、何か一番印象的でしたか?
鐵そうですね、一番印象的だったことは、予選ではものすごく緊張したこと、そのあと本選の直前のゲネプロまで緊張していたのですが、本選の本番だけは、そんなに緊張しなかったということです!(笑)
本選の本番ではとても集中でき、これまでの人生のなかで一番気持ちよく弾けました。
予選の時は本当に緊張しました。手はいうこときかないし…こんなに怖いことは久しぶりでした。それだけ動揺していたのだと思います。
ですが、そんな状態でも自分がやろうとしていた最低限のことは表現でき、本選まで残れたというのは自分のなかで大きな成長でした。
今までの自分だったら、ここまで緊張したらいい音は出せない、結果も出せない、と思ってきたので、その“緊張に負けなかった”というのが、自分のなかで成長だったと思います。
スタッフ緊張ですか!そうですね、あれだけの大舞台ですから…コンテスタントさんたちの緊張は計り知れないものがあるでしょう。
ちなみに、どんな緊張だったのでしょうか?そして本番の見事な演奏までに何があったのでしょうか?
鐵本選の前にすごく緊張をしていて、前日のリハーサルでも暗譜を間違えてしまったり、本番当日のゲネプロでさえ間違えてしまったりと、基礎的なところでダメでした。
ですが、本番では吹っ切れて、「一山超えて楽しい!」みたいになれました。
暗譜だけは間違えてはいけないと強迫観念のように追い詰められていて、ゲネプロまでは暗譜!絶対!という感じだったのですが、本番では暗譜のこととか、いちいち考えていない自分がいました。
暗譜のことを考えてしまうって、自分の感覚では”雑念”なのです。ですので、雑念がまったくない状態で”曲の本質”とシンクロし、演奏することができたことはうれしかったです。
“音”というのは単なる”表層の出来事”でしかないと私は思っているので、いかに表層的な現象ではなく、”曲の本質”の方に集中して表現できるかが重要だと思います。
スタッフなるほど、“表層の出来事”ですか。
鐵楽譜に並んでいる音というのは、もともとその曲で表現したい”もやっとした本当のこと”があって、それが結局、音の編成となり、ものすごく美しいものと化して私たちに伝わってきているのだと思います。
スタッフわかるような気がします。
「音がきれいなピアニストはたくさんいるが、音楽が美しいピアニストは少ない」という話しを聞いたことがあります。
それは”表層の出来事”を単に追っているだけなのか、それとも”曲の本質”を伝えようとしているのか、そこに差があるのですね。
本選当日、鐵さんが舞台に現れたときから「今日はなにかが違う」という感じがしました。
鐵さんも堂々としていて、なんだかとても大きく見えました。そして、初めて聴いたサンサーンスだったのに涙が流れてきました!
鐵さんの演奏は情緒的に流されるということはありませんね。音の一つ一つに意味があるというふうに聴こえます。
鐵枝葉末節に囚われてはいけない、というのが自分の戒めとしてあります。
曲の中で「ここすごい、ここすごい」という箇所がたくさんあるのはわかるのですが、そればかりにとらわれてはいけないと思うのです。
例えば料理でいうと、料理の”技術”はもちろん大切なのはわかりますが、”素材”も大切です。
チャーハンを例にあげると、新鮮な美味しいお米で作らないと美味しくできない、それは”素材”ですよね。しかしそれだけでなく、パラパラの食感にするために蒸気の飛ばし方という”技術”がないと美味しいチャーハンにはなりません。
本当の名作とは、曲の本質という”素材”も素晴らしく、作曲技法という”技術”の点でも素晴らしいのです。
どちらも大切なことですが、特に、技法にとらわれてしまうと表層的になってしまうので、素材の味もちゃんと味わうことを忘れてはいけないと思います。
スタッフなるほど。料理とはとてもわかりやすい例えですね!
鐵けど、わたしチャーハン苦手なんです(笑)
知識を演奏にどう活かせるかがポイント
ー ピアノを演奏する上で、論文(エッセイ)を書いたり考察することはどんなところで活かされていると思われますか?
鐵私はもともと香川県出身で、現在のようにYouTubeなどもなく、レッスン環境や、ピアノを勉強する上では、恵まれていない環境で育ちました。その中で”本”というのは、レッスン代よりもはるかに安く、しかもものすごく多くの情報が得られます。ですから、本は、私にとって”身近な先生”のような存在でした。
そのような学び方をしたので、苦労したことが一つあります。
高校の時、とある講習会で、先生から「あなたはこの曲の構成がわかっていますか?」と問われ、勉強は済んでいたので答えたのです。
すると「オッケーですが、演奏には表現されていませんよ。日本人って、英語の読み書きはできるのに話せないっていう人が多いよね。文法をいくら知っていても、話せなかったら何もならないでしょ…」って笑われたのが、私なかでとてもショックというか、衝撃だったのを覚えています。
「もしこの和声の動きを理解していたら、自分だったらこう表現するし、いろいろな表現の仕方があるはず。あなたはわかっているのに、何も表現できていない」と言われました。高校の1年の冬の出来事でした。
このとき初めて、知識が実用化されていない、ということに気付きました。
ですので、そのときから、知っていても“それをどう活かせるか”ということをずっと自問自答してきた気がします。・・・・答えになってるかな…(笑)
楽譜の裏にある”本質的なもの”とは
ー 人生を通して研究したいテーマは何でしょうか?
鐵さっき言ったことに付随するのですが、「分析と演奏が直結するような音楽へのアプローチの方法」について研究していきたいと考えています。
巷では和声を演奏に生かす方法という類の演奏家への手引きの本というのがたくさんあります。ですが、それは対症療法のようなもので、「その解釈は演奏ではこうするのですよ」というように、結局”表層の出来事”でしか扱えません。
「ここはfで演奏すると和声的に完結する」 「このような和声だからここはpで弾いた方が良い」「こういう音形だからこのようなフレージングが適切だ」というのはすべて表層の出来事なのです。
そうではなく、「その楽想はここの楽想と関連がある」 「この楽想はこの楽想と同じ性格を持っている」など、曲のもっと奥のものにアプローチする方法をちゃんと確立して、演奏がなくても演奏が聴こえるような内容を著していきたいと考えています。
楽譜から音が想像できるのはわかるのですが、そうではなく、言葉から音が想像できるように、もっといえば、弾いているときの気持ちまでもが伝わるような言葉が理想です。
私の専門は演奏なのですが、高校の頃から言葉を通しても表現できれば良いなと考えてきました。
スタッフ良くわかります。そのことは音楽だけではなく、すべてに通じるものですよね。例えば、文章でも何かすらすら入ってくるものもあれば、そうでないものもあります。
なんなんだろう、と思いますよね。自分の気分と言ってしまえばそれまでかもしれませんが…そういうものは果たしてそれはメソトロジーになるのでしょうか?
鐵そうですね。文法上の誤りがない文章でもつまらない文章もあるし、逆に文法上の誤りがあっても面白い文章もありますよね。
スタッフしかし鐵さん、すごいことを考えてらっしゃいますね…!
鐵いやいや…。ですが、こんな話しをしているとあなたは文学の道に進みたいのですか?といわれます(笑)
でも、偉大なピアニストはさまざまな哲学的な思考を深めていて、本もたくさんあります。例えば、ピアニストのマルグリット・ロンがドビュッシーについて語っているとても良い本があります。
ドビュッシーの素晴らしい演奏ぶりと、その演奏の本質についての考察が興味深かったです。
これを読んで、楽譜に書いてある表示を楽譜どおりに正しく演奏したら作曲家の意図に沿っているかと言ったら、決してそうではなく、楽譜の裏にもっと本質的なものがあり、そこから生まれ出たものとして楽譜を捉えないといけないなって、思いました。
スタッフ一貫してますね!さっきのチャーハンの話と。
よく、素人的に言えば「心を込めて演奏すれば良い演奏」だとか言いますが、そうではないのですよね。
鐵そう思います。心を込める、というと”与える”という感じになってしまいますよね。
例えば曲の中でも「ここすごく悲しい」と共感してから悲しい文法であることを知ることがあります。
ですので、先に悲しい文法を探すのではなく、まず悲しさに共感することが大事だと思います。
スタッフそうですね。感動するからこそ、その正体を知りたくなるのだと思います。
それと、日本人と欧米人の違い、というものもあると思いますがいかがでしょうか?
例えば日本人は物事を情緒的に捉える傾向があり、欧米人は論理的に捉える傾向があると言われていますね。
鐵それはあると思います。例えば音楽でいうと日本人は「線的」に捉え、欧米人は「構造的」に捉えると、聞いたことがあります。
スタッフ線と構造の違いですか…興味深いですね。
それと似ていますが、歴史観の違いもありますね!日本人は因果応報というか、川は流れるという歴史観で、欧米人はレンガを積み上げていって出来上がっているという歴史観、そういう文化の違いもあると思います。
鐵そうですね!そういう意味ではベートヴェンは音の選び方が本当に必要な音しかない、という構造的な感動がとてもあります!音の透明さというか…心にすっと入ってきます。本当にすごいと思います。
シューマンは、曲の原点に立ち返る
ー 今回のプログラムであるシューマンについてはどのように考えていますか?
鐵さきほどお伝えしたように、ベートーヴェンは作曲技法が卓越したものがあるのに対して、シューマンは作曲技法が未熟だったように思うときがあります。
シューマンはそういう意味ではただ弾いただけでは曲にならないので、曲の本質を理解して、演奏によって補うようにしないと難しい面があると思います。
ベートーヴェンはもともと書法的に曲が完成されてしまっているので、そのまま弾いただけでも美しく聞こえるような…(笑)
シューマンはそうはいかなくて…曲の本質というか「シューマンはこの曲で何を一番表現したかったのかな?」という具合に考えます。
「この曲の力点はどこだろう」「フレージングはどうしたら良いかな」などと考え、もっと原点に立ち返って構成していかないと、本当に支離滅裂になってしまいます。
スタッフなるほど。そういう話とか先ほどのアプローチの話を聴いていて思ったのですが…鐵さんてすごく「作曲」が向いているのではないでしょうか?!
鐵いやいや、自分はまったく向いていません!(汗)
どちらかというと、私は先ほどの話しでいうと、”線的”なタイプなのです。
高校に入ってからソルフェージュで聴音があるのですが、それでわかりました。和声聴音を書き取る時、一つの声部ずつ横に取っていく方法の方が得意だったのです(他方、和音の積み重なりを縦に聴いて書き取る方法もあり、こちらは苦手でした)。さらに、和声聴音よりも旋律聴音の方がずっと得意でした。それで自分は線的に音を聞くタイプだということがわかったのです。
聴音は客観的に自分の聞き方を知ることができ、顕在化できるのだと知りました。自分が苦手なことだからこそ、勉強しよう、取り入れようという風に思ったので、そう見えただけですよ!私は決して作曲には向いていません!(笑)
スタッフわかりました!作曲家をめざしてはいないということは、よくわかりました(笑)
「サーカスのしごき」のような厳しいレッスンの日々を経て
ー クラシック音楽が好きになったきっかけは何ですか?
鐵きっかけというのは本当になく、私にとって水泳、バレエ、習字、と同じレベルで並列して、趣味として始めました。
ピアノを始めたら、おばあちゃんがアップライトピアノを買ってくれて、それが本当に本当にうれしくて、朝起きて弾いて、気づいたらピアノの椅子の前にいて、そしてまた弾いてというように、私にとってピアノはおもちゃのように楽しい遊びでした。親戚のみんなの前でめっちゃ下手なピアノを披露するのが楽しかったですね!最初はそういうピアノとの関わり方でした。
小学校1年生くらいから、先生にすすめられてコンクールに出るようになり、たまたま結果にも恵まれていました。
小学校4年の時に偶然、芸大を卒業した先生のコンサートに行く機会があって、自分も芸大に行きたいと思ったのが転機となりました。
芸大の前に芸高という附属高校があるのを知り、そこに行くことを目指し、ちゃんとしたレッスンを初めて始めたのです。それは、小学生5年くらいのときでした。それから、「サーカスのしごき」と先生ご自身に失笑されるような、厳しいレッスンの日々が始まりました!(笑)
まず、練習曲の取り組み方から変わりましたね!ピアノで遊ぶというよりは、ピアノをおさらいする、という風に変わりました。それまでは、周りの子がピアノの練習を嫌がるという理由がわからなかったのですが、その理由がやっとわかりました…。
弾ける道がある限り「ピアノを弾きたい」
厳しい道を選択し続けた人生
ー 自身が演奏家として生きて行こうと思ったきっかけは何ですか?(どんな演奏家になりたいですか?)
鐵芸高に入った段階で、先輩方の大学院までの姿が見え、全員が演奏家として生きていけるわけではない、ということも目の当たりにし、愕然としました。
将来どうする?就職どうする?みたいなことを高校一年のころから考えていました。
ここまできてピアノを捨てる、という選択があるのか…と驚きました。
私の場合、芸高受験が失敗していたら音楽の道は諦めていたと思います。金銭面と地方出身という面で、どうしても厳しいものがありましたから…。ですが、先輩方を見ていたら、ここまで来ても、ピアノを弾かない選択肢があることに衝撃でした。
今までは受験対策だったりで、専門家に評価されるという意味での勉強をしてきたのですが、これからは、クラシック音楽がわからない人にもわかってもらえるような、誰に対しても説得力のあるピアノ(説得力というと商業的に聞こえてしまいますが)、自分の心を伝えられるような魅力のある人間にならないと全然生き残れないなと、頑張る方法を変えていかないといけない、と感じました。
今まではCDとかの演奏を聴いていましたが、東京に来てからは小さなコンサートや生の演奏に触れる、ということを意識し始めたのも、ちょうどそのころです。
どうしても将来演奏家になりたいと思っていたので、いろいろ模索し、ときには迷走もしていたと思います(笑)
というのも、私は「ピアノを弾きたい!」と言い続けて、周りの人にやめろと言われ続けてきたので、自分の想いだけは強く持っていました。右手が麻痺してしまったこともあったのですが、左手一本でも、まだ弾ける道があるのであれば…という思いで、ピアノをやめようとは考えませんでした。
スタッフなるほど。強い想いを持って人生を選択してきた人というのは違いますね…。
ベートーヴェンは心の葛藤を乗り越えて
シューマンは「ダメな自分も受け入れて欲しい…?」
ー 鐵さんが一番演奏したい曲、作曲家は?
鐵自分が弾きたい曲と、評価される曲、他者が私に弾いてほしい曲とは、ズレがあると思うことがあります。
自分が弾きたいのはベートーヴェンやラヴェルなのですが、合っているといわれるのはドビュッシーとか、シューマンと言われます。・・・・全部弾きたいです!(笑)
ですが、シューマンは少し苦しいものがあって、シューマンは曲から与えられるものというよりは、なんというか、自分が能動的に動いて自分から曲に近づいていかないと、結構しんどいです!エネルギーがいるので。
すごく疲れているときにシューマンの曲を弾くと(特にシューマンがすごく苦しかった時代に書かれた作品にアプローチするなど)、結構辛いものがあります。
シューマンのソナタの3番などは、クララと引き離され、クララに手紙を書いても書いてもお父さんに破り捨てられるという、切なく狂おしい恋情が詰まった曲ですし…。
その点、ベートーヴェンは意外とそういう「苦しい」要素はなく、前向きでポジティブだと思えます。
ベートーヴェンの曲には「自分には音楽という芸術があって、それをやらないといけない」というパワーがあり、そのパワーを演奏者も貰えるのです。ベートーヴェンは艱難辛苦、心の葛藤を乗り越えた上で書いている、(音楽によって乗り越えられた)という風に感じます。
ですが、シューマンはその時のそのままの苦しみを書いている、という感じですね。ですので、吸い取られ感があります(笑)
スタッフそういう意味では作曲家それぞれ、根本的な気質というか、タイプの問題がありますね。
ベートーヴェンは自己超越というか、克己の精神があると思えますし、シューマンはそういうタイプではないでしょうね、きっと。(笑)
鐵「あぁ~、ダメな自分も受け入れてほしい…」みたいなこところがあるでしょうね(笑)
スタッフ(笑)
ケンカするけど大好き!家族のような存在
ー 鐵さんにとってピアノとは何ですか?
鐵ライフワークというか、わたし、ピアノがないと生きていけない!(笑)
いつも好きというわけではないのですが、好きなんだけど、嫌になることもあって、喧嘩することもあって、もう”家族”みたいなものです。
まぁ~ケンカしない家族もいるかもしれないんですけど、私は母ともケンカしますし、けど基本的には好き、みたいな感じなのがピアノですかね。
スタッフなるほど、信頼関係が築けているという感じですね!
家族とは良いたとえですね…。
鐵まぁ、向こうは信頼していないかもしれないけど…(笑)
クラシック音楽は尊いもの
「自分の魂を削って、曲に命を吹き込む」ーだから感動が深い
ー 抽象的な質問になってしまいますが、「音楽の本質」とは何だと思いますか?
スタッフわたしたちも生きていく中で時々いろんなことがありますが、時に音楽によって癒されたり、勇気がでてきたり、力がみなぎってきたり…それはなぜだろうと、考えてきました。ある時「音楽とは神の愛であり、英知である」という言葉を知り、とても納得したことがあります。そんな経緯から、ぜひ鐵さんにもお伺いしたいと考えていました。
鐵日本は森羅万象に神を見るという文化があると思いますが、欧米では少しでも神に近づこうとアプローチする方法が音楽だったと言われています。
音楽って歴史的背景があると思っていて(あまり私が歴史的なことを口にすると語弊がある部分もあるとは思うのですが)
音楽は人の心を動かすものとして、神と同義のようなところがあって、そういう意味では悪魔にも神にもなりうるものです。
かつて教会側からも、時には粛清される存在になったことも、ドイツのナチの時にはユダヤ系の音楽が迫害されたことも、ロシアのソ連の時代でも社会への影響力を恐れて政府の意にそぐわない音楽は弾圧されたことも、すべてはそういった理由があると思います。
今この時代では、人の心を惹きつけるものというのはたくさん溢れています。
CMや映画、舞台、娯楽が溢れていて取り合いになっていますね。そして、みんなキャッチーなものに走ってしまっている傾向があると思います。そうした多くのものは、生まれては消え、消えては生まれの繰り返しです。そんななかで、クラシック音楽はずっと生き残ってきている尊い存在です。
感動に序列をつけるわけではないですが、感動が深いからこそ、ここまで残ってきているのだと思います。自分の内面を見つめ直す、というか、私たちに深いものを与えます。
スタッフ自分の内面を見つめ、浄化するという感覚と、音楽を聴いて浄化するという感覚とは、似たところがあると思います。
鐵舞台に立って演奏するときは、「自分の魂を削って曲に命を吹き込む」という意識で、身を削っています。極限まで追究したものを、本気で披露するという過程のなかに、惹きつけられるものがあるのではないかな、とも思っています。
スタッフなるほど…そういう意味では、複雑で混迷の現在の社会において、クラシック音楽を日々の生活に取り入れてもらうということはとても意義深いことですね。心も浄化されるし、本質的で大切なことをないがしろにせずに、自分をしっかりと保つことにも役立ちます。そうすることによって、仕事だけでなく、生活全体のパフォーマンスもアップされますね。今日はお忙しいなか、貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。
鐵そうですね、そんな影響を与えられる演奏家になりたいです。
(以上。2017年12月17日美竹清花さろんにて収録)